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  2006/04/25 死のなかの笑みー徳永進『野の花診療所の一日』(共同通信社)

 徳永進医師の主宰する鳥取市の「野の花診療所」で、2年前の4月26日夕刻母が亡くなりました。家業と歌作に捧げた80年の生涯でした。となりのベッドには、父がいます。前の年の5月に脳梗塞で倒れ、その後に末期ガンがみつかったのです。母は、父と手をつないで息を引き取りました。二人がともに過ごした50年を超える時間の重みを感じさせる光景でした。「おかあさんが死んだらわしは殉死する」が父の口癖でしたが、そのことばどおり同じ年の8月に父も亡くなっています。

 徳永医師が、慣れ親しんだ「地方勤務医」の職を捨て、終末期医療のための「野の花診療所」を開設したのは2001年のことでした。診療所のHPには、徳永医師の、こんな文章が載せられています。「死ぬのはつらいだろうなー。だったらその時、その横に立っていて、手を握ってあげる仕事をしようと思ったのが高校2年生の時でした。37年が経ってようやくそういう場にたどりつこうとしています」。所在地は鳥取市の下町。徳永医師の志に共鳴する看護師さんと地域の人たちのヴォランティアに支えられた、ベッド数19の診療所です。

 高名な作家(講談社ノンフィクション賞を受賞)にして名医(地域医療に貢献した人に贈られる「若月賞」の受賞者)。しかし、実際の徳永医師はそんないかめしさなどみじんも感じさせない飄々とした鳥取のおっちゃんです。母の死が迫っていた時でさえ部屋に入ってくると父に明るく声をかけました。「よ、おじいちゃん!」。患者や家族に向かって説教めいた重たい話は一切しません。どんな時にも笑みを絶やさず、その語り口は常にユーモラスです。

 徳永医師は「シュヴァイツアーのような人になれ」と言われて育ちました。後年、彼にユージン・スミスの写真展を開催する機会が訪れます。しかしスミスの映したシュヴァイツアーの写真に徳永医師は、あまり感心しませんでした。「現代の英雄たらんと苦闘していた」(本書158頁)彼の姿が鼻についたようです。他方、コロラドで働く田舎医者、セレアーニを撮った「カントリードクター」からは、凄まじい迫力を感じ取った。「あなたが目指す医者は?」と問われたら、ぼくは答える。『セリアーニ』」。徳永医師の原点を伝える文章です。

 死は当人ばかりでなく、周囲にとっても大変なことです。愛する人を失う悲しみには、はかり知れないものがあります。徳永医師は、まず患者さんが安らかに苦痛なく死を迎えることに心をくだきます。そして、臨終の床に家族が揃うことを非常に重視しています。愛する人の死に立会うことで、死という事実を受け容れることができるようになる。そのことが結果として、愛する人を亡くした悲しみからの回復を容易にすると考えるからです。

 ここでは別離の時も大切にしてくれます。すぐに地下の暗い霊安室に追いやられるようなことはありません。臨終の時、病室には私たち兄弟夫婦と孫5人が揃っていました。母が好んだという「はちみつレモン」で死に水をとらせます。徳永医師が言いました。「晩ご飯は、おばあちゃんが好きだったもんを外から頼んでみんなで食べてつかんせえ。酔っ払わん程度ならお酒もかまいませんで」。おばあちゃんが大好きだった「梅乃井」のうなぎを食べました。狭い病室で。9人が折り重なるような姿で。さすがにお酒は自粛しましたが。

 臨終の直後、孫たちは泣いていました。兄の子どもたちは、そろって浪人留年をくり返し、おばあちゃんに心配をかけました。当時6年生だった桜は感受性の鋭い年頃です。号泣していました。2年生の太郎は、まだよく分かっていないのだと思います。しかし、周りにつられて泣いていました。すると隣室からNHK教育テレビの人気番組「ピタゴラスイッチ」の軽妙な音楽が流れてきます。一瞬桜と太郎は顔を見合わせて笑います。しかしすぐに、「こんな時の『ピタゴラスイッチ』はいやだ」と言って一層激しく泣きじゃくります。桜と太郎がみせた「死のなかの笑み」には、母の死の深い悲しみから大人たちを癒す力がありました。

投稿者 kotani : 16:19 | コメント (4) | トラックバック (1)
  2006/04/14 奇跡

母の危篤の報せを聞いて、たくさんの友人達がホスピスを訪ねてきてくれました。母が亡くなる日の朝、兵庫県の但島地方に住むOさんが来ました。彼女は元高校教師。母の古くからの歌の仲間です。大変聡明な人で、歌作以上に舌鋒するどい歌論で知られた人でした。しかし往時の面影はまったくありません。お嫁さんに伴われて来たOさんの表情には生気がまるでない。歩くこともおぼつかない様子です。周りの出来事にもまったく反応しません。ぼけているのです。

 Oさんとお嫁さんは一緒に母の病室に入ってきました。すでに母には意識がありません。呼吸困難に陥った母の苦しそうなうめき声が聞こえてきます。お嫁さんはOさんに、「お母さんあなたのお友だちですよ、ご挨拶しましょうね」、とさかんに声をかけています。しかし、Oさんは何の反応も示しません。残酷な光景でした。母は死にかけている。そして母が畏怖してやまなかったOさんは、親友が死の床にあることさえ理解できない痴呆老人に成り果てているのです。

 何も分からない当時2年生の太郎が、ニコニコ笑いながらOさんのもとに近づいていきます。その時奇跡が起こりました。Oさんの表情に生気がよみがえったのです。太郎の頭に手をやりこう尋ねました。「坊や、何年生?」。声の張りも鋭い舌鋒で恐れられた往時のものに戻っています。目もいきいきと輝いていました。Oさんにはぼくと同い年の一人息子がいます。太郎の存在が息子さんの幼かった日の記憶を呼びおこしたのでしょうか。Oさんもその時代の彼女に戻ったのだと思います。

 太郎のかたわらにいる姉の桜には何の関心もOさんは示しません。お嫁さんにうながされ母と向き合うと、Oさんはもとの無表情に戻ってしまうのです。短い面会を終えてOさんたちは帰途につきました。ぼくたちの家族はホスピスの玄関まで二人を見送りにいきます。Oさんは太郎の姿に気がつきました。ほどけていた太郎のパーカーの紐を結び直すと、若々しい張りのある声でこう言ったのです。「ありがとう。また会おうね」。二人はタクシーに乗り込みました。Oさんの表情は、痴呆老人のそれに戻っていました

投稿者 kotani : 10:03 | コメント (4) | トラックバック (0)
  2006/04/08 無菌室グルメ案内

 防衛大学に通う甥っ子の「うなぎ君」(うなぎの蒲焼が大好物なので、私の子どもたちがつけたあだ名です)が、面白いことをいっていました。2年生になると陸上・海上・航空の各自衛隊のなかの一つを将来の職場として選択しなければなりません。それによって訓練の内容が違ってくるからです。海上自衛隊は、食事が最高にうまいらしい。海の上で他に楽しみがないから、食事には力を入れているということでした。「うなぎ君」は海上自衛隊を希望したようです。まさか食事につられたわけではないでしょうが。
 
 無菌室では無菌食を食べます。すべての食べ物が200℃で数十分加熱されて出されていました。形状は異様で、味はひどく濃厚なものばかり。吐き気と口内炎に苦しめられている患者が食べられるような代物ではありません。ただアイスクリームはおいしかった。加熱してドロドロになったアイスクリームを再び冷やして固めたものです。抗がん剤治療の後、牛丼をたべた直後、吐き気をもよおした後から私は死にそうなほど酷い心臓痛を経験しました。それがトラウマになって、牛丼が食べられなくなるということはありませんでしたが。

 無菌室を出てからも試練は続きます。無菌室を出ると、生ものが除かれる他は、普通の患者さんと同じものを食べることができます。しかし殺菌のため、すべての料理が2分間電子レンジで加熱されます。その作業に手間どったのでしょうか。ある日の昼食に伸びきったそばが出てきました。あれほど「まずい!」と思った食事は近年、他に記憶にありません。

 しかし、食事がうまいのまずいのといえたのは、私の病気の回復が順調だったからでしょう。ひどい口内炎から味覚障害に陥り、まともな食事ができなくなる人も珍しくありません。6人部屋で一緒だった若いミヤジマさんもそんな一人です。患者さんにおいしい食事を提供しようという作る側の誠意も感じられました。あまり贅沢をいってはいけないのでしょう。しかし「うなぎ君」が海上自衛隊の食事を絶賛したようには、私が病院食を褒めるきもちにはなれないことも、残念ながら事実なのです。
 
  

投稿者 kotani : 17:38 | コメント (6) | トラックバック (0)
  2006/04/01 「いまなんじ」?

 病気の発覚と神奈川での新生活が重なったことが、家族の心労を倍加させてしまいました。妻は、まだ誰も知り合いのいない公園で2歳の太郎を遊ばせながら、これから自分と子どもたちだけの長い長い時間が待っているのだろうかと、言い知れぬ不安に襲われたと語っていました。

 小学校に入ったばかりの桜は、元気に新しい環境に適応していきました。しかし、両親の神経がささくれ立っていますから、叱られる機会も多くなります。私と二人になった時、彼女の言ったことばが忘れられません。「最近お母ちゃん、笑わないね」。幼いなりにわが家に生じた異変を感じとっていたのです。

 そんななかで救いは太郎の存在です。何しろ2歳。何も分かるわけがないのでお気楽そのもの。『ノディ、いまなんじ』というアメリカ人が書いた時計つきの絵本を読んだことがきっかけで、異常に時間に関心をもつ子どもになっていました。街で時計を見つけると「いまなんじ?」と必ず聞きます。時間は時計ごとに異なる、と信じてもいたようです。デパートの時計売場に行った時など、つぎつぎに時計を指さして「いまなんじ、いまなんじ、あーいまなんじ?」とほとんど半狂乱のありさま。酒屋さんで秤をみつけても、「いまなんじ?」と尋ねます。

 ある晴れた日曜日のことです。団地の近くの大きな公園に家族で行きました。みるとアベックがいちゃいちゃしています。彼らは抱き合って口づけをかわすと、そのままごろごろと転がりはじめたのです。まだ着衣の乱れこそ生じていませんでしたが、口にするのもはばかれる行為に移行するのも時間の問題と思われました。

 そこへ太郎が駆け寄ります。男の腕時計を指差して「いまなんじ?」と尋ねたのです。アベックは一瞬虚をつかれて呆然とします。が、すぐに女の方はげらげらと笑いはじめました。男の方も苦笑いしながら、太郎に時間を教えてやっています。非常識だけど、悪い人たちではなさそうです。

 気の滅入る闘病の日々のなかで心から笑うことのできた貴重な瞬間でした。 

投稿者 kotani : 13:21 | コメント (3) | トラックバック (0)

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