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(骨髄異形成症候群)

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  2009/10/01 十年一昔

2009-10-01 00:09:17 | Weblog私が骨髄移植をうけてからの10年間。医学の進歩には目覚ましいものがあります。10年前にはまだインターフェロンで発症を遅らせる他治療法がなかった慢性骨髄性白血病にグリベックという特効薬があらわれました。最初は途方もなく高価な薬だったのですが、保健も効くようになり、いまでは多くの患者さんがその恩恵に浴しています。

無菌率99.9%状態という、あの鬼のようの無菌室も姿を消し、患者さんの闘病も人間らしい環境で行われています。骨髄移植の年齢上限も50代前半と当時はいわれていましたが、簡便な移植法が開発された影響もあり、いまでは10歳近くその年齢も上がっているようです。現在浅野元宮城県知事が、骨髄移植のドナーがあらわれるのを待っています。フルマラソンを何度も完走した頑健な浅野さんのことです。移植さえできればきっと健康を回復されるはずです。

私が罹った骨髄異形成症候群もその発症の原因が明らかになったという報道がありました。原因が分かれば自ずと治療法も定まってきます。10年前に同じ病気に罹るより、いま罹った方がはるかに生存確率は高いし、その予後も安定したものになることは間違いありません。このことはとくに血液関係の疾患について言えます。

  しかし患者さんの社会経済的条件は悪化しています。私は入院中に数百万円を支払いましたが、そのほとんどが還ってきました。月の治療費が4万円を超えた分は還付されていたからです。ところがいまはその額が万円に上がっています。10年前私は自分が死んだときのことを考え、遺族年金の計算をしょっちゅうやっていました。だいたい20万円を超えるぐらいだったと記憶していますが、いまではこれも大幅に減額されているはずです。きちんとした休業保証のある会社や高額医療費を払える人の数は、10年で激減したことでしょう。社会経済的条件の悪化は、医学の進歩による恩恵を相殺して有り余るものがありそうです。

投稿者 kotani : 10:48 | コメント (2)
  2009/08/28 鉄人

今日は大学病院に行ってきました。骨髄移植を受けると一生その後のフォローを受けなければなりません。とほほ。もう移植後5年をすぎていますし、薬も服用していないので半年に一度でいいのですが。

 血液も内科的な数値も万全なのですが、唯一心配なことが。移植の前後に1万CC超の輸血を受けました。口から入れた鉄分はやがて排泄されるのですが、血管に入れたものはそのまま残ります。それが内臓に付着して様々な疾患の原因となるのです。それでも形あるものはいつかは滅びる。移植から10年もたてばほぼ輸血の影響がなくなるはずなのに、私のばあいはほとんどその数値が減じていません。

 これは非常に危険な状態で、医者にいわせれば対応は二つしかないようです。まず瀉血。瀉血といってもイメージできないかも知れませんが、血を捨てるということ。ミッシェル・フーコーの本を読むと近代以前の医学というのは治療法などほとんどなくて、瀉血が幅をきかせていたようです。

 もう一つは最新の薬を飲むことですが、これは一月に百万円近くかかるのだとか。薬とを飲めばすぐに解消される問題のようですが、私自身の健康状態が良好なのに高額の薬を飲ませることに医者も躊躇があるようです。それにしても「ミッシェル・フーコー」の次が「超高度医療」でその中間はないものかしらん。

 私は骨髄移植を受けた人間のなかではもっともハッピーな予後の経過をたどった一人だと思いますが、それにしてもいろいろなやっかいがついてまわるものだと思いました。みなさん。健康にはくれぐれもご留意ください。

投稿者 kotani : 11:10 | コメント (0)
  2007/09/25 「えらい人」

 骨髄移植を受ける前に6人部屋にいた。これだけでストレスのかかる状況である。とくに血液疾患の病棟など、それこそ死に直面している人が同じ部屋に何人もいる。病気や経済状況に関する深刻な話が、どんなに声を潜めても他人に筒抜けになってしまう。地震の被災者のための避難所もかくやという状況だ。病室はすべて個室にすべきである。患者たちの交流の場は別に用意すればよい。

 その6人部屋に大手家電メーカーのエリート技術者(自称)のおじさんがいた。しきりたがりで同室の患者に上から見下したものいいをする。同室の住人から随分煙たがられていた。そして看護師さんたちにも、しばしば説教を垂れていた。「お前ら、コスト感覚がない!そんなことじゃあ、企業じゃ通用しないぞ!!」。

 やかましい!企業と病院とは違うんだ!!そう言いたかったが我慢した。喧嘩をする元気のある人間は骨髄移植を受けたりはしない。この人はぼくの職業を知ると「大学って世界もほんとうにコスト感覚がないよね」と言った。まあなんとかの一つ覚えもここまで徹底すれば見事なものだと思わぬでもなかったが…。「コスト感覚」は企業社会では金科玉条だろう。それが限られた世界のローカルルールでしかないことがこの人には分からないのだ。

 社会のなかで高い地位にあった人ほど、病気はこたえるだろう。慣れない弱者の地位に突き落とされるからだ。病気や老齢で周囲の保護を必要とすることになった、かつての「えらい人」ほどはた迷惑な存在もないのではないか。義父の知り合いで、県の偉いお役人だった人物がいる。脳梗塞で倒れて認知症に近い状態になった後でも彼は、役人時代さながらに威圧的に周囲を怒鳴り散らし、医療者や患者仲間を辟易とさせていたという。

 自称高級技術者もこのお役人も、社会的地位があるという意味では「えらい人」だったのだろう。しかし、本当に人間的な値打ちがあるという意味での「えらい人」ではなかった。自戒の念をこめていうのだが、社会的に成功した日本の男というのは、ほとんどこの手合いではないのだろうか。

投稿者 kotani : 15:41 | コメント (0) | トラックバック (0)
  2007/08/11 「いままでありがとう」

 男の子と女の子を両方育ててみると、その違いの大きさには驚かされます。骨子はよく学校のことを話してくれる。だから彼女の中学の様子は手にとるように分かります。しかし太郎は、まったく学校の話を家ではしません。「聞きたいことがあったら質問してくれ」。とにかくあまりしゃべらない。パントマイムのように首をたてや横にふってみせるだけ。

 H君とM君の悲報に接した後の、二人の反応も対照的でした。吹奏楽の部活から帰るとなり、骨子は号泣します。ある意味でこの子の反応は分かりやすい。太郎はその日は祝日で練習もなく家にいて、電話連絡でH君の死を知りました。格別変わった様子はみせません。口笛をふきながらゲームをやっていた。感情を表に出すことが苦手のようです。

 H君に太郎はいろいろな思い出があります。吹奏楽の男の子は少ない。しかも同じトランペットパートです。宇都宮や水戸に遠征した日の夜は、男の子同士同じ部屋で、楽しい時を過ごしました。同じパートのH君の学年には、しっかりしたコワイ感じの女子の先輩が複数いました。なごみ系のH君のキャラは、太郎にとって救いになっていたはずです。

 あまりしゃべらない太郎ですが、会話のはしばしに「H君は」ということばが出てきます。H君の一家は昨年の秋に引越しをしました。「家を変わらなかったら死なずにすんだかなあ」とぽつりといったことがあります。コンビニに買い物にいった時、太郎は森永のチョコボールを指差します。「これH君が好きだった」。太郎の頬に涙がつたっています。

 火事から数日後。太郎が吹奏楽の男の子たちと火事の現場に行きました。花と楽譜とチョコボールをたむけます。チョコボールの箱に太郎は「いままでありがとう」と書きました。お世話になった先輩への偽らざる気持ちでしょう。子どもたちはその後、吹奏楽の練習にいきました。練習から帰った後の太郎の顔は蒼白でした。子どもには、あまりにも過酷な経験だったのでしょう。

投稿者 kotani : 22:04 | コメント (0) | トラックバック (0)
  2007/07/29 永久欠番

7月15日の深夜、近所で大きな火事がありました。両親は2階から飛び降りて無事でしたが、骨子と同じ中学に通う二人の子どもが犠牲になりました。3年生のM君は骨子と小学校が同じで何度も同じクラスになっています。弟のH君には、この3月まで太郎が吹奏楽の同じパートの先輩としてお世話になりました。昨年秋の水戸であった吹奏楽の大会には、M君が応援に来ていました。大変仲のよい兄弟だったようです。M君は一度はベランダに出ていたのに、弟を助けようとして部屋に戻り犠牲になったという説があります。

 連休明けの火曜日。朝の全校集会で二人の死が告げられました。全員で黙祷。兄のM君のクラスでは、彼が作った修学旅行の新聞の前に女子生徒が群がり号泣していたそうです。バドミントン部のエースで、ミュージシャンになるのが夢だったという、かっこよくてやさしいM君は、女の子に大変人気がありました。兄弟のお母さんはフィリピンの方です。その南国的で陽性な気質を受継いだのでしょうか。二人とも明るく愉快な性格で、悪い評判はまったく聞かれませんでした。

 骨子のクラスの担任は熱血体育教師。「お前らなぁ。Mの無念を思えば、安易に死のうなんて絶対考えるんじゃないぞ」といってそのまま泣き崩れてしまいました。先生になってまだ3年目。教え子の死にはじめて接したのでしょう。 国語の中年の女の先生は、M君の去年の担任。中島みゆきの「永久欠番」の歌詞を配り、CDをかけていいます。「毎年卒業式の前にこれを配るのにね。こんなに早くこの歌を聴くことになるなんて…」。この先生もやはり泣き崩れてしまいました。

 火事の翌日は海の日。バドミントンの大会当日です。M君と組んで春の大会のダブルスを制したA君は、この大会の第1シード。顧問の先生は、事態をA君に告げ、ペアを代えてダブルスの試合に出るよう促します。しかしA君は、「ぼくはM以外の奴とペアを組むつもりはありません」といって棄権し、そのまま部活を引退してしまいました。終業式の日には1学期に活躍した生徒が表彰されます。M君とA君の名前が呼ばれました。壇上には悲しみにたえて一人毅然と立つ、A君の姿がありました。

投稿者 kotani : 10:15 | コメント (3) | トラックバック (0)
  2007/05/29 心の専門家

 私が勤務している学部では、社会学の他に心理と福祉の専攻があります。カウンセラーは女性の職業として人気が高いようで、心理学専攻には優秀な学生が集まってきます。しかし、臨床心理士になるのは大変。大学院で非常に厳しい訓練をうけて、その上で資格試験に合格しなければならないのです。高い能力が要求されます。臨床心理は、統計を駆使し、高度な理論で身を固め、対象を冷厳に眺める科学者のような人たちです。カウンセリングそのものを否定するわけではありませんが、科学者に人の心を癒す力があるのかという疑問を消し去ることはできません。

 死と向き合う、深刻な病気を抱えた患者がたくさんいる血液病棟には、しばしば臨床心理士たちが訪れて来ました。患者の精神的安定に寄与するという名分のもとに。みんな有能で誠実な人たちです。しかし、臨床心理士がなんなのかを誰も理解はしていません。相談をもちかける人もなく、なんだか宝の持ち腐れといった印象をもちました。

 こんなことがありました。6人部屋で、ただ一人のおじいさんは骨髄異形成症候群で回復の望みがありません。おじいさんのいらいらを鎮めるために、臨床心理士を看護師さんが呼びました。「なにかお悩みはありませんか」と彼女(心理の専門職は女性が多い)。20代か、せいぜい30代前半の若く美しい女性です。するとこのおじいさんは激怒しました。「あんたのような若造に、わしの気持ちが分かってたまるか!」。

 この女性がショックを受けて涙ぐんでいると、病室の若者頭Oさんが、彼女を部屋から連れ出してこう言いました。「あのじいさん気がたってるからさあ、悪気はないから許してやれよなあ」。いやはや。「心の専門家」が患者から慰められているとは。

 同室のハセガワさんは、白血病なのか悪性リンパ腫なのか判定がつかず、2ヶ月もこの2つの難病の間で宙吊りになっていました。当然、心理的に不安定になる。そこで臨床心理士の登場です。女性のカウンセラーが来て、ハセガワさんは彼女と一緒にどこかへ消えました。そこで一時間半あまり面接を受けたようです。帰って来た彼に、私はこう尋ねました。「心の安定は得られましたか?」。「関係ないっすよ。頭がよかったり学歴があることと、人の気持ちが分かることは全然別っすよ」とハセガワさん。

 「でも、すげー美人と一緒にいられてハッピーでした。気分も晴れましたよ」。なるほど、そのカウンセラーはたしかにすごくキレイな人でした。

投稿者 kotani : 16:53 | コメント (11) | トラックバック (0)
  2007/04/21 白い巨塔

発病から8年もたつと、通っている病院にもいろいろと変化が起こってきます。主治医は昨年、新潟の病院にご栄転。その時無菌室でお世話になった先生が、助教授に昇格されて私の主治医になりました。また病院も大改装。見違えるほどきれいに新しくなりました。あの重々しい完全無菌室は、いまでは姿を消したようです。

 新しく建て変わった病院で驚いたのは、まるで呼び出しの声がしないことです。個人情報保護のためでしょう。患者さんの名前が呼ばれることはありません。該当の診療科に行って、診療カード機械に入れる。すると部屋の番号と順番が書かれた紙が出てきて、それを受け取り、液晶の掲示板にその番号が出ると部屋に入っていって診察を受けるという仕組みです。会計も自動支払機ですませますから、病院に入ってから出るまで診療室以外は、音なしでことが進んでいきます。

 これは、個人情報の保護という面からは正解でしょう。それに闘病中は呼び出しの声の無神経さに苛立ったものです。しかし、人がほとんど介在しないで機械で手続きを進めていくシステムはぼくなどでもとまどうところがある。ご老人は途方にくれるのではないでしょうか。それに、うるさいのは気がまぎれる分もあります。音のない世界は、どこか死をイメージさせるところがあります。白血病を抱えていた時に、この音なしのシステムだったら、「死のベルトコンベアー」に乗せられたような不気味さを感じて、ぼくは気が滅入っていたと思います。

 個人情報をさらけ出され、弱っている患者さんの耳元でたえず大音声が流れている環境はいうまでもなくデリカシーにかけ、快適ではありません。しかし、静謐のなかで機械を相手に手続きをとる環境が、人間的であるとはとてもいえません。患者さんにやさしい環境とは何か。とても難しい問題に思えます。

投稿者 kotani : 16:38 | コメント (0) | トラックバック (0)
  2007/03/28 没落しませう

40を過ぎてぼくはがたっときた。大病をした直後にはそれこそボロボロだった。70代と思しき女性から電車で席を譲られたことがある。髪は真っ白になった。みるからに老人である。子どもの運動会で敬老席に招かれた時はショックだった。骨子や太郎の友だちでぼくのことを「おじいさん」だと思っている子も少なくない。身体も頭も弱りきっている。「加齢」という運命を受け容れて生きていく他はない。

 ところが森光子はどうだ。80を過ぎても物凄く若若しい。舞台ででんぐり返しもやるし、外見はどう見ても40代か50代である。吉永さゆりや大地真央も同じ路線をたどりつつあるようにみえる。しかしこれはよいことなのだろうか。その年代、年代の美しさを表現してこそ大女優ではないのか。日本を代表する女優たちがいくつになっても若若しいということは、「加齢の美」を、歳をとることの価値を表現する者がいないということになりはしないだろうか。

 結局この国では若さが至上の価値なのだ。日本の中高年は、ただの古びた若者であると関曠野さんはいっていた。至言だと思う。「ちょい悪おやじ」は「小僧っ子」に、「二キータ」たちは「小娘」に敵愾心を燃やしている。腹が出たりいろんなところが垂れ下がってしまった中高年は、とても若者にたちうちできない。だから高価なアイテムで自分を飾ろうとする。そういう連中の消費行動が一つの市場を形成している。

 加齢を拒否する空気がこの国を覆っている。加齢の拒否とは、自分の弱さを認めることの拒否であると同時に、自分が死に逝く存在であることをも拒否しているのだと思う。そして加齢を拒否する人々の姿は、没落という事実を受け容れようとはせず、勢いを増してきた近隣諸国(小僧っ子・小娘)に嫉妬して悪あがきを続ける、この国の姿に重なるものでもある。そういえば安倍晋三も異様に若くみえる。

投稿者 kotani : 11:36 | コメント (2) | トラックバック (0)
  2007/02/23 みの一つだに なきぞ悲しき

 「ロクな政治家もいないのに、何故日本は短期間で経済大国になることができたのか?」。外国人からそう尋ねられると、精神科医の中井久夫さんは「ただの人がえらいからだ」と答えるそうです。 たしかにそのとおりだと思います。日本の医者が世界的にみて、すごく知的レベルが高いという感じはもちません。しかし、たしかに普通の人のえらさ、かしこさを実感する場面はいくらでもありました。

 無菌室のぼくの部屋の掃除に来てくれていたのは、50代後半の地元のおばさんでした。入室後、最初の朝に彼女が言った言葉は忘れられません。「加齢御飯さん。あんたもう大丈夫だよ。大山(おおやま=丹沢山系の霊峰)さんが守っていてくれるからさあ」。この部屋でもたくさんの患者がすでに死んでいるはずだ、などとは言いますまい。本当にそう信じている人の言葉には力があります。

 気さくなおばさんで、よく身の上話をしてくれました。「いや、金には困らないんだけどね、家にいて嫁と喧嘩しててもつまんないからさあ、こうして病院で使ってもらってるんだよ。人様のお役に立てて、ありがたいことだよ」。看護師さんたちの話だと、彼女の家は厚木のあたりの土地持ちだかビル持ちだかで、その資産は優に億を超えるのだと言います。アメリカで、ん百万ドルを超える資産をもつ女性が病院で掃除の仕事をしていることなど絶対にないでしょう。

 病院のある町は大田道灌の居城のあったところです。無菌室にいた時に「道灌祭」というのがありました。道灌役にパンチ佐藤(笑)。お姫様役が佐藤藍子だったか・・・。 無菌室でその話題になりました。部屋のなかには、主任の看護師さんと中村江里子(女医)、ジャニーズ系(大学院生)、そして掃除のおばさんがいました。

 「道灌といえばこれですね。『ななえやえ 花はさけども山吹の』」ぼくが上の句を読むと、下の句に和したのは掃除のおばさんでした。「みの一つだに なきぞ悲しき」。他の3人はキョトンとしていました。「いやあ加齢御飯さん。学があるじゃあないか」。豪快に笑いながらおばさんは部屋を出て行きます。「なんすか。さっきの短歌みたいなやつ」。ジャニーズ系が不思議そうに尋ねます。 チョーサーだかの時代の武人の詩を、医者が知らなくて掃除のおばさんが知っているなどということは、イギリスでは絶対にないでしょう。 中井さんのことばが、説得力をもって迫ってきます。

投稿者 kotani : 19:03 | コメント (4) | トラックバック (0)
  2007/01/24 ユージン・スミス

15年ほど前のことである。鳥取で新聞記者をやっている友人から電話がかかってきた。徳永進医師の主宰する文化施設、「こぶし館」でユージン・スミスの写真展をやる。ついてはスミスの解説を地元紙の文化面に書いてくれというのが依頼の内容だった。

 ホスピスムーブメントの旗手としての声価の高い徳永医師は、子どものころから「大きくなったらシュバイツァーのような偉大な医者になれ」とお母さんから言われ続けて育っていった。高校時代に徳永少年はユージン・スミスの写真と出会う。スミスが映し出したシュバイツァーからは、「偉大な人物」たらんとする彼の臭みを感じて好きになれなかった。むしろ「カントリー・ドクター」という一連の写真に描かれた、アメリカの田舎医者、エルネスト・セリアーニに強くひかれた。徳永さんは後に、セリアーニと同じ田舎医者としてのキャリアを選びとっている。

 自分の人生の方向付けを与えてくれたスミスに、徳永さんが深い思いを寄せるのは当然のことだ。何度かこうした作品展を徳永さんは鳥取で開いていた。この時ぼくが何を書いたかはいまは覚えていない。記事が新聞に載った数日後、父から電話がかかってきた。

 父はいう。「徳永さんのところの文章、読んだで。なかなかよう書けとった」。まずはぼくの文章をほめてくれた。「ただなあ、新聞は天下の公器なだけえ。軽々によそ様のことを『友人』ちゃあなんで呼んだらいけんだ」。?!一瞬ぼくは耳を疑った。「お前がなあ、なんぼ『友人』だと思とっても、あのスミスっちゅう人はお前のことを『友人』だとは思っとらんかもしれん。文化の違いちゅうこともあるだけえ。よう気をつけないけんで」。

 驚いたことに父は「ユージン・スミス」のことを「友人スミス」とぼくが書いたと勘違いしていたのだ。こうした不思議でとんちんかんな心配を大真面目でする人だった。それから10年近くの後に、徳永医師のホスピス「野の花診療所」で、母のあとを追うように人生の幕を閉じることになるとは、この当時、ぼくにも父にも予想だにすることはできなかった。

投稿者 kotani : 06:38 | コメント (0) | トラックバック (0)
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